Add Some Comedy To Your Day

フリーの小噺と好きな音楽

義務感や社会からの圧力ではなく、普通に子育ての方が仕事より面白いからそれを選ぶ

労働の喜びの本質は、他人を喜ばせることだ。俺は本気でそう思う。しかも、なるべく効率的にそれができるとなお良い、と思う。

たとえば、俺のことを「会社の中では若手の話を聞いてくれて、仕事ぶりのしっかりしたまあ尊敬できるおじさん」と思ってくれている20代前半の若手男性社員と、同じく俺のことを「まあ他のおじさん社員比べればマシだとは思うし、一応直属の上長なので、できる限りの愛想は振りまいてあげるし、それをほんのりとした好意だと受け取ってもらっても差し支えない」と思ってくれている20代後半のもうすぐ中堅女性社員がいたとしよう。彼ら2人を自腹を切って喜ばせようとしたら、たぶんそれはとてつもなく困難だ。2〜3万じゃとてもきかないだろう。一食5、下手をしたら10万のジョエルロブションみたいなレストランに連れて行き、やっと少し感動してくれるかもしれない。そして、若手男性社員くんは「さすがタジマさんだ。俺も10年後、こうなれるよう頑張ろう」と、うっすら憧れてくれるかもしれない。そしてもうすぐ中堅女性社員ちゃんは、「やっぱりタジマさんは他のおじさん社員とは違ってセンスはいいしなによりケチじゃないわ」と思ってくれるかもしれない。そして気を大きくした俺は、次の湘南新宿ライン宇都宮行きに乗りたいもうすぐ中堅女性社員ちゃんに、「このあと、近くのホテルをとってるんだけど、よかったら休憩していく?」と聞いてみるかもしれない。そして彼女は凍りついた笑顔で、「冗談やめてくださいよー。じゃあまた会社で」といって足早に去るかもしれない。週明け、俺のデスクに人事部のハラスメント窓口から電話がかかってくるかもしれない。いっきに噂が社内に広まるかもしれない。若手男性社員くんからの信頼は地に落ち、ゴミを見る目で俺に一瞥をくれて鼻で笑うかもしれない。俺は耐えられくなって、惨めに退職するかもしれない。全部本当になるかもしれない。そうはならず、楽しい思い出だけが残るかもしれない。いずれにしても、さまざまなリスクを許容して、やっと俺は二人を少し喜ばせることができる。もしかしたら、半年くらいは覚えてくれているかもしれない。でも結局のところ、俺が2人をいちばん喜ばせることができる選択肢は「干渉しない、邪魔しない」という、消極的手法だけなのかもしれない。

対して子育てはどうだ。俺は5歳の娘と3歳の息子を、いつもと違う、少し遠い公園に連れていく。その帰り道、たまたま通りすがったサーティーワンアイスクリームに、気まぐれで入ってみる。店に入った途端、二人は圧倒されて声も出ない。こんな素晴らしい空間がこの世に存在することが信じられないといった表情で、ショーケースに並ぶ31個のステンレスバットに入った色彩の暴力を凝視する。「どれでもひとつ、選んでいいよ」と俺はいう。さんざ迷って、娘はポッピングシャワー、息子はチョコレートを選ぶ。俺は大人だから本当は抹茶を選びたいが、「パパのも一口食べさせて」とねだられた時のことを考えて、ベリーベリーストロベリーにする。食べるのが遅い未就学児にワッフルコーンはまだ早い。キッズサイズをカップで頼む。俺は大人なのでレギュラーサイズだ。愛想の良い、多分子供が好きな金髪の高校生くらいの店員さんから3つのカップを受け取る。店内のテーブルで口の周りを汚して食べる。やっぱり俺のベリーベリーストロベリーは二人に少し食べられる。帰り道、二人と手を繋いで帰る。
「またいこうね」「こんどはメロンにする!」と笑いながら帰る。
キッズサイズのポッピングシャワーとチョコレート、合わせて700円で、俺は彼らに今世最大の喜びを与えることができる。俺はたぶん、今日のことを忘れないだろうな、とぼんやり思う。もしかしたら彼らも、食べたフレーバーは忘れても、父親といった初めてのサーティワンを大人になっても覚えていてくれるかもしれない。

今の仕事で俺がどんなに頑張っても、こんなふうに誰かを幸せにすることはできないと思う。だから価値がない、というわけでは全然ないけれど、やっぱり仕事と子育ての二つがかち合ったとき、俺は後者を選ぶだろう。それは、男性も子育てに参加するべきという社会的圧力や、父親としての責任感からではなく、純粋に「そっちの方が面白い」からなのだ。