キキが喋れなくなったジジに微笑んだのはなぜか?〜「魔女の宅急便」考察
『魔女の宅急便』が好きだ。もう通算8回くらい観ているが、いまだにキキがトンボの手を掴んで空中で静止するラストシーンで、
「えらいよキキ、ホントよく頑張った!」
とオソノさんといっしょに泣いている。産気づきはしないが。
先日、通算9回目くらいの鑑賞で、いくつか新たな気づきがあったので、個人的にまとめておきたい。
まず、この映画には明確な表のプロットが存在する。それは、「仕事を通じて子供から大人へ成長する少女の物語」である。
物語の冒頭で、象徴的なアイテムが2つ出てくる。父におねだりしてもらった携帯ラジオと、母から強引に渡された古い大きなホウキである。キキがそれをほしかったかほしくなかったかに関わらず、この2つのアイテムは、どちらもキキに「無償で」提供されたものだ。
だが、親元を離れて海の見える街に住み始めてからのキキは、誰の施しを受ける時も、自分なりにその「対価」を払おうとする。オソノさんに部屋を貸してもらったときは、パン屋の手伝いが約束だったし、ウルスラに猫のぬいぐるみを修繕してもらったときは、彼女の家の掃除を引き受けることが条件だった。一見すると誰もかれもがキキに甘すぎるきらいがないでもないが、実際には、キキは親切には親切で返そうとするし、逆に彼女が誰かに親切にした際は、自分の考える範囲でその「お代」を請求することを学んでいく。
むろん、駆け出し社会人のキキは、その「お代」の勘定を間違うことがある。頑張っておばあさんと作ったニシンのパイを、孫娘から「嫌いなのよね」と一蹴されるシーンがその最たるものだろう。キキは自分の親切が相手から当然感謝されるものと期待していた。だが、そうならなかった。冷たい孫娘の態度にイラッと来てしまいがちなこのシーンだが、単にキキが、相手に過剰な対価を期待していたに過ぎない。キキはおばあさんからしっかり代金を受け取っているのだし、届いたニシンのパイが好みでないことは孫娘の責任ではないからだ。同じようなことは、社会人であればだれもが経験したことがあるだろう。徹夜で書いた企画書を、上司から軽くボツにされた、などがそれである。しかし、それが仕事というものだ。
想定していた通りの反応をもらえないことももちろんあるが、このシーン以外はおおむね、キキは相手から期待通り(多くの場合それ以上の)対価を得ていると言えよう。オソノさんは部屋を貸すだけでなく朝食もつけてくれた。のみならず、オソノさんの無口な旦那は、キキのために看板を作ってくれた。ウルスラは飛行能力を失って悩む彼女に有用なアドバイスをしてあげたし、ニシンのパイのおばあさんは、キキが薪のカマドでのパイ作りを手伝ってくれたことに対して、配送代をはるかに超える金額の代金を支払ったことに加え、ケーキまで作ってあげた。皆、キキの努力に親切で報いている。
ここまでは、過去8回の視聴の中で考察した内容であり、「魔女の宅急便」の基本プロットが、少女から大人への成長譚であることの大きな根拠である。しかし、これだけでは説明できないシーンがあることに、9回目の視聴で気づいた。それが、先述のラストシーンである。
さて、街に来てからのキキは様々な出来事を通して、「他人の施しを受けるなら、自分もその人にとって有用となることをする」という大人社会の基本ルールに基づいて意思決定を下していく。が、最後の最後で、彼女はこのギブ・アンド・テイクの法則から逸脱した行動をとる。例のデッキブラシである。
飛行船の暴走に巻き込まれたトンボを救うべく、キキはデッキブラシの所有者たるおじいさんに対して、「お願いです!必ず返します!」とだけ頼み込んで、やや強引に彼からデッキブラシを借りる。*1それは、実家から旅立つ当日、父にねだってラジオを手に入れた行為と本質的には共通している。この瞬間、街にやって来てからキキが己に課してきた「他人の施しを受けるなら、自分もその人にとって有用となることをする」というルールが崩れる。諸々落ち着いてからこのおじいさんにお礼をした可能性はあるが、それが作中で描かれていないのは象徴的である。
なぜここに来て、キキはそれまでかたくなになって守ってきたルールを破ったのか。状況が切迫していたのは当然あるが、キキの成長譚たるこの物語の絶対方針を転換してまで、上記のおじいさんとキキとのやり取りを描いたのは、何かしらの意図を感じる。そして、ハタと気が付いた。おじいさんとのやり取りだけではない。この、物語のクライマックスとなるラストシーン全体が、キキの定めた「ギブ・アンド・テイクの法則」から離れて、「無償の愛」に基づいて織りなされているということに、である。*2キキは今、対価を請求することなくトンボ救出に挑もうとしている。というか、トンボの危機に瀕して、彼女の頭から一時的に「施しに対する対価」という概念が抜け落ちた。ゆえにキキは、おじいさんへの礼を失したままデッキブラシを借りたのである。
流れがあまりにスムーズで気が付かなかったが、キキにはトンボを助ける明確な理由が実はない。しいて言えば、「街でできた最初の大事な友人だから」というのがそれだが、未回復の飛行能力を使用し、危ない橋を渡ってまで助けるような施しをトンボから受けたわけではない。あまりにドライな考え方に見えるが、実際にこのラストシーンまでのキキの行動は「他人から優しくされたから、自分もそのお返しをする」という一貫した理念に貫かれている。しかしそれは、裏を返せば「自分が一生懸命がんばったら、他人もそれに応えるべきである」という、ある種独善的な思想にも結び付いてしまう。
考えてみれば、初めてこの街にやってきたキキは、トンボから「無償で」施しを受けている。トンボが、「ドロボー!ドロボー!」と叫んで警官の注意を逸らし、職務質問を受けていたキキを逃がしたアレである。
だが、キキはその無償の施しの受け取りを、「助けてって言った覚えはないわ」と拒否する。彼女にとって、自分が対価を払えないサービスを受け取ることは、己が大人になるために課したギブ・アンド・テイクのルールを破ることと同義だったからである。
だが、最後の最後で、その無償の施しを拒否した相手であるところのトンボを、今度は彼女が自らのルールを破り、無償で助ける。ここに、キキのギブ・アンド・テイクの理論は、真の完成を見る。施しをくれた相手に対価を返すのは、ある意味で当然の義務である。しかし、そうでない相手にも親切にするというのは、なかなかに難しい。キキはそれをやってのけた。トンボを助けた瞬間に感じるカタルシスは、キキがこだわっていた安易なギブ・アンド・テイクの理想論に、「無償の隣人愛」が勝利を収めたことによる。かくしてトンボは救われた。
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さて、ここまで来ればエンドロールの直前、キキがしゃべれなくなったジジに微笑みかけた理由もわかるだろう。私は、「最後にジジは会話能力を取り戻し、キキにだけにはジジの言葉がわかった」などという、作品の描写を無視した勝手な解釈に与しない。また、「ジジはキキの自己像の反映で、ジジが会話能力を失ったのは、キキが成長してそれを必要としなくなったから」という、ジジを何者かの象徴として扱うことも、ここでは不要だと考える。物語の意味性や象徴性に目を向けすぎると、本来は感覚で受け取るべき重要なメッセージを見失うことになる。
ジジがしゃべれなくなったことで、キキとジジとの関係は利害を超えたところに存在するようになった。なぜならジジは、人語を操るというキキにとっての「有用性」を失ってしまったからである。対してトンボはそうではない。律儀で優しく才能もある彼は、きっとキキが無償の愛を注ぐ対象としてだけでなく、有用性のある友人としての側面もこれから持ち続けるだろう。だが、ジジは違う。彼は今後、キキに役立つアドバイスを授けることもしないし、具体的な言葉で慰めることもしない。今やジジは、意味性も象徴性も失った、ただの猫となった。だからこそこの物語は、他ならぬジジに向けた笑顔で終わらなければならなかった。ジジがしゃべれなくなった理由など些事にすぎない。この映画の本質は、「それでもなお、キキがジジを愛した」という描写にこそある。しゃべることはできなくなったが、ジジがキキの大切な、愛すべき友人であるという事実は変わらない。愛する友人が、自分の肩に乗って「ニャー」と鳴けば、笑って抱きしめるのが当たり前の行為ではないか。そしてその「当たり前」に、私はいつも胸を打たれ、涙するのである。