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「死んだら負け」呼ばわりされないといけないのは、自殺が生きることのルールにもとるから

 

今更の言及ではあるが、こういう話題に今更もなにもないし、自分の人生観にとって非常に大切な問題であるような気もするので、ちゃんと書いておこうかなあと思うわけなんだけど。

 

結論から言うと僕の意見は

 

  1. 自殺は負け
  2. 「負けること」自体は別に悪いことではないし、非難されるべきことではない
  3. 自殺という行為が非難されるべきなのは、「負けたこと」そのことではなく、「負け方」が度を超えたルール違反によるものだから

 

という3点である。

 

まあこれでほとんど言いたいことは言ったようなものなのだけど、以下は補足。

 

そもそも、何との勝負なのか

「死んだら負け」というセンテンスが多くの誤解を招き、独り歩きしてしまったのは、そもそも、何に対しての戦いで勝った負けたを言っているのか、ということが全く言及されていないことによると思う。多くの人が自殺と言う方法を選んでしまった人の「勝ち負けの相手」として、「ひどいイジメを加えた同級生」だったり、「度を超えたパワハラを繰り返すひどい上司」だったりを想定しているのが、僕には驚きだった。前後の文脈上そういう解釈をされてもしょうがないところもあるが、基本的に僕は人生なんて一人遊びだと思っているので、かえってこういう解釈は全然ピンと来なかった。

そう、「一人遊び」なのである。生きることは、特定の誰かと対戦して勝ち負けを競う格闘ゲームのようなものではなく、一人で延々とテトリスをやりこむことに近い。次々と降り注ぐブロックという課題を、与えられた時間の中で最適な形に組み替え、最適な位置に置く。そうやって日々最適解を模索し続けながら生き残り続ける。これが生きることが求める唯一のルールであり、「勝負」の内容なんではないかな、と個人的には考えている。

 

Tetris?

Tetris?

 

 

ということで、件の「死んだら負け」がそれほどひどい発言だとは、僕は最初からどうしても思えなかった。だってそうでしょ。生きることがテトリスみたいなもので、その場その場でのベストを尽くすことがルールだとしたら、自ら死を選ぶことは、テトリスやってる手持ちのゲーム機を、自分から叩き壊すようなもんなんだから。それはもう「負け」以外の何物でもないし、なおかつゲームのルールにもとるでしょう。「負け」と断じたうえで、さらに「それは良くない選択だね」と言われてしかるべきものなんじゃないですかね?

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負けることが悪いんじゃなくて、敗退行為がルール違反だから良くない

これは断っておくけど、僕は自殺した人を「良くない、それは良くないよ」と思うのと同時に、同情する気持ちもあるのよ。何せ、ゲームのテトリスは難易度がある程度選べるけど、生きることの難易度は限りなく運任せだし、時としてとんでもなく理不尽な形のブロックが、とんでもないスピードで落ちてきたりもするしね。しかも連続で。そうでなくとも、人によっては生まれつきやり方が下手くそな人もいるわけよ。自分の人生振り返っても、大チャンスの場面で落ちてきた細長ブロックを、テンパって全然的外れなところに置いちゃったことはあるよ、しかも相当な回数。正直な話、そのうちの何回かは、そのミスが致命的な引き金になってゲームオーバーになっちゃったこともある。自殺と言う方法を選んでしまった人がそこに至るまで、そうとうえげつないブロックを振らされ続けて辛くなってしまったことは、想像するしかないけど、これは本当に同情する。

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でもまあ、それでも、ゲームを叩き壊すようなことをしなければ割かしコンティニューできるのも人生のいいところで、新しいステージに行くごとにブロックがガンガン複雑怪奇な形になるようなことはあれど、基本的にはゲームそのものを続けることはできるということが多いわけさ。そうやって、日々勝ったり負けたりしつつ、今日も今日とて降ってくるブロックを消し続けることが人生だと思うわけ。

 

そうやってどうにかこうにか生きていると、「不治の病にかかる」とか「やくざの流れ弾に当たる」なんかの、シャレにならない一発KOコンティニュー不可のブロックが突然降ってくる人もいて、そういう人には心底同情するとともに、絶対に敬意を払うべきだと思うんだよね、たとえ同じ「負け」だとしても。だって、その日その日のベストを尽くして、ルールの中で負けたんだったらこれはしょうがないでしょう。同じ「死んだら負け」でも、これは全然意味が違う。

でも、もう何回も言うけど、自分から死を選ぶのは、それはルールの大前提をひっくり返す敗退行為じゃないですか?それはブロックの理不尽さ加減とは別に、責められてしかるべきものだと思うんですよね。責めるっていうのは、死を選んだ個人じゃなくて、その方法に対してね。それはルールの中で下手くそなりに必死でやっている人間からすれば、「そりゃあないでしょう」と言ってもいいような気がするんだけどな。

 

今日言いたいことはそんなところです。以下引用。

 

自殺する人も、人生のルールに違反しています。人生のルールは私たちに、どんなことをしても勝つということを求めていませんが、決して戦いを放棄しないことは求めているはずです。

 V.E.フランクル「それでも人生にイエスと言う」より

 

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 

 

いや、っていうか単に、久々にやったらテトリスおもしれー!ってことなのでした。